Haradaiko  

   好きな味噌汁の具材は豆腐です。

オタク差別に関する仮説、覚書

差別は一般に、差別するひとと差別される対象との接触機会(直接の知人が被差別属性をもっている人である「直接接触」と、知人の知人が被差別属性をもっている人である「拡張接触」[間接接触]がある)が増えるほどに低減することが知られている(Allport 1954;1979 , pettigrew&tropp 2006など)。

「オタク」は現在では人口に膾炙した言葉となっており、いわゆる陽キャであってもアニメやゲームをひろく楽しむようになっている。すなわち、オタクの定義を単なるアニメ・ゲームユーザーとして定義するならば、オタクとそうでないひとの接触機会は、(特に若い世代においては)極めて多いであろうことが推定される。であれば、オタクへのネガティブ感情も当然少なそうなものだが、以下の記事などを見ると、どうやら必ずしもそうではないらしい。

オタクと気持ち悪いという言葉 - データをいろいろ見てみる

 

もちろん、上記記事でのデータは長い時系列を示すものではなく、俯瞰的にみれば(例えば90年代と2019年現在を比べれば)オタク差別は低減しているといって差し支えないかもしれない。とはいえ、現状において(それが以前ほどではないにしても)一定の差別感情が温存していることは確からしく思える。

 

ともかく、「オタク」と「キモい」のそれぞれの言葉が連続した関係を見せるのはなぜだろうか。
これに対する仮説はいくつかすぐに思いつくだろう。
例えば、①オタク定義自体がもっと複雑であることや②オタクとの接触機会の少ない層が偏った言説を極端に強化している、といったことだ。


①は、「ただアニメをよくみるひと」のことを私達がいちいち「オタク」と呼ばないことから分かる。オタクと敢えて呼び称す必要があるのは、もっと特殊な状況であろう。具体的には、件の献血ポスターでの出来事からも分かるように、「普通はしないことをアニメやゲームなどを動機に行う人」のことをオタクと定義しているように見える(残念ながら、献血は普通はしないことだろう)。そうすると、オタクと敢えて呼ばれる存在がじっさいにはかなりの少数で的を絞った対象であることが分かってくる(とはいえ、普通はしないことという分類自体が恣意的ではあるが)。そして、そういった少数派とそうでないひとの(直接・間接)接触機会が依然として低いならば偏見が強く存在していることにも説明がつく。

昔と今ではオタクの範囲がズレている。すなわち、現在では「ライト層」(あるいは「にわか」)と呼ばれる人たちでさえ昔は明らかな「オタク」として扱われてきたのに対し、今ではそういった層は「オタク」とはあまり呼ばれない(のかもしれない)。誰もがアニメを観るようになりオタクの裾野が極端に広がるなかで、「誰もがオタクだと思うひと」(「オタク」という語が敢えて指すにふさわしいひと)の範囲がかえって狭まり、それにつれ大局的にはオタク差別が減りつつも、より狭い範囲でオタク差別が温存している可能性がある。


あるいは「オタク」という概念自体にそもそもネガティブな意味付けが行われている可能性もあげられる。
つまり、オタクという語自体が侮蔑のための“形容詞”として流通しており、「オタク」と「キモい」が関係するのは、それが同語反復(tautology)であるからかもしれない。「オタク」という語が抽象化された集合のことを指すのではなく、「○○(人名)ってオタクだよね」という言明が「○○ってキモいよね」という言明の言い換えでしかないなら、必然的に「オタク“で”キモい」という文章が多くなることも頷ける(前述したオタク定義がより厳密であることが原因とみる場合、「オタク“は”キモい」という文章が多くなるだろう)。


②は、オタク定義の内容が仮に「アニメをよく見る人」程度の広範なものであれ、より厳密な狭い定義であれ、そこでオタクと定義されるひとと(年齢や土地によって区分された)特定の層のひとの接触機会が顕著に少ない可能性についてである。つまり、オタクをキモいと関連付けてツイートする/発言するひとは例えば高齢者などのいわゆるオタクとの接触機会が少なそうなひとに偏っている可能性である。特定の発言力の高い/発言頻度の多い層のひとばかりが「オタクはキモい」と言及することが、あたかもオタクに対する全体の印象を代表しているかのように錯覚しているだけかもしれない(/じっさいには多くの人はオタクにネガティブな印象をもっていないかもしれない)。オタクにたいしてネガティブな印象をもっていない人は敢えて「オタクはカッコイイ」というようなポジティブな発言しないように思う。そのために、オタクへのネガティブな発言が中心的な位置に置かれてしまう錯覚が生じる可能性は十分にある。

 

これらの仮説が正しいかはともかく、オタクがある特定の人びとにとって嫌な存在として定着しているということがいかにして可能なのかは検討にあたうだろう。

 

雑文でした。